喜:)怒:(哀:(楽:)

//ツイッターで撒き散らしたtweetのまとめを中心に更新するゲーム(アナログ含む)好きのブログです。
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//北欧剣譚ヘイムダル ■1.1 ■1.2 ■2.1 ■2.2 ■3.1 ■3.2

北欧剣譚ヘイムダル2.1-氷窟の妖姫-

【1】

「……そろそろ、第一回戦が終わるね」
 どれくらい、スピカの身体を抱きしめていただろう。
不意にスピカは腕の中で身動ぎした。懐中時計を見たのかもしれない。
「かもね。そろそろ、通過者の発表があるかな」
 僕は彼女を離して、椅子を立つ。
 選抜試験は第四回戦まであるのだ。その回の戦いが終わると、各対戦の評価が行われて、次の戦いへと駒を進める選手達が決まることになっている。
 僕はスピカとともに控え室を出た。
 もうオッテの姿はなかった。観覧席に戻ったのだろう。
「どうしたの?」
 足を止めた僕に、スピカは首を傾げた。
「いや、さっきまでオッテが居たからさ。でも、もう戻ったみたいだ」
「そっか」
 スピカは軽く返して歩き出すが、すぐに歩みを止める。
「うぅ」
 そう言って小さく呻く彼女に、僕はギョッとして駆け寄った。
 先の競技で怪我をしていたのだろうか。すぐに医務室に連れて行くべきだろうかとスピカの顔を覗き込むと、彼女は両手で赤くなった頬を押さえていた。
「……ど、どうしたの?」
 どうやら怪我が痛んでいるわけではないらしいが……一体どうしたのだろう。
「だ、だって、さっきの……聞かれたかも知れないし」
 さっきの?
 僕はスピカに言われて、さっきのことを思い返す。
 戦いが終わって、僕の気持ちを伝えて、スピカに告白した。スピカはそれを受け入れてくれて、僕たちは結ばれたのだ。
 腕には、まだスピカの温かさが残っている気がするのだが。
「あ」
 そうか。僕はそこで、やっと思い当たった。
僕と彼女が告白合戦していたとき、オッテはまだ外にいたかも知れないのだ。
 オッテに限ってそんなことをするとは思わないが、部屋の戸を開けて盗み見ていた可能性だってあった。そんな状況で抱きしめあったり、キスしたりしていたのだ。
「だ、大丈夫じゃないかな。多分」
 僕は上ずる気分を落ち着けながら言った。殆ど希望みたいなものだけど。
 まあ、オッテなら積極的に言いふらしたり……しそうだなあ。
「その、付き合ってるんだ、とか、そういうこと言われるのは平気だよ。胸を張って、付き合ってるって言えるけど。だけど告白したのを聞かれたのは、恥ずかしいよ」
 だけど、僕の危惧と彼女の羞恥は別のところにあったみたいだった。
 胸を張って、付き合ってるって言える。
 彼女のその言葉に、僕は心の奥が一際、温かくなるのを感じる。
「……ありがと、スピカ」
 僕が言うと、彼女は「なんでお礼するの?」と小さく笑った。



 競技場に出る。すでに評価は始まっているらしく、観衆はざわめいていた。
 脇の方に集まっていた選手の列に入る。一瞬、ロジェスと目があったけど、彼は剣で負けたことが悔しかったらしく、すぐに視線を反らした。
逆に、その後ろのヴァルキュリア候補生に見つめられ、僕は少しだけ戸惑う。やや癖のある赤毛をポニーテールにした彼女は、ロジェスと組んで僕を追い詰めた少女だ。
 彼女はスピカに対して何か強いライバル意識をもっていたようだったから、最終的に負けみたいな結果になって歯がゆい思いをしているのだろう。
 そうこう考えている間に、アンスールのルーンによって拡声された審査官の声が響く。
「続きまして第一回戦、第四試合の評価、および審議結果です」
 僕達の試合だった。
 僕は固唾を呑んで、次の言葉を待つ。にわかに汗をかき始める僕の手を、スピカの手が優しく握る。
「まず、アスレチックレースです。先着したロジェス・リンレット組には十ポイント与えられます。また、その攻略が極めて迅速で安全であったとの評によりプラス十点し、合計二十点とします。ヘイム・スプラネリカ組は、攻略時間ギリギリであり被害も大きかったとして無得点とします」
 二十対ゼロ。僕は固くスピカの手を握る。大きな点差だ。辛勝だった剣術勝負で追いつけるとは思えない。
「次に、模擬戦の結果です。勝利したヘイム・スプラネリカ組には十ポイント与えられます。また相手のルーンを封殺するという作戦が高評価であったため、ロジェス・リンレット組には五点、加点されます」
 僕は、強く歯をかみ締めていた。
「二十五対十で、第五試合を勝ち上がったのはロジェス・リンレット組とします」
 その無情な決定に、わずかだけ抵抗するように。
「続きまして第一回戦、第五試合の評価、および審議結果です――」
「……ヘイム、行こう」
 彼女の声に、僕は頷く。
 一回戦を敗退した選手は、三々五々に解散を始めていた。その流れに混じって、情けない気持ちを隠すように、歩き出す。
 ロジェスが今、どんな気分で、どんな表情でいるのか。僕の背を目で追っているのか、見る価値もないと一笑するに留めているのか。背を向けている僕には分からない。
 勝てるとは思ってなかったけど。
 負けるだろうとは思っていたけど。
 だけど、改めて力不足を突きつけられてしまっては、心中穏やかではいられない。
 悔しかった。
僕は、敗者だった。
「ヘイムは、強かったよ。だから、自分を責めちゃダメ」
 握った手をぎゅっとして、彼女は言う。
 競技場の正面玄関前。
 辺りには、同じように敗退してしまって、程度はどうあれ、悔しがっている人たちがいる。彼らは観覧席から降りてきた友達や、あるいは恋人と、一生懸命やったねって慰めあいながら、寮の方へと歩いていた。
「次、頑張ろう。次、頑張れるように、二人で一緒に頑張ろう」
「……頑張ろう」
 僕はスピカを見て、小さく言った。
 ちゃんと言おうと思ったけど、急に気恥ずかしくなってしまったのだ。
 だけどスピカは、そんな小さな呟きでも納得したようで、パッと顔を明るくすると笑顔を僕に向ける。
「早く終わっちゃったね。せっかくだから、町の方に行ってみようよ」
「うん」
 是非もなく、僕は頷く。これがオッテだったなら面倒くさいかも知れないけど、相手はヒミンビョルグの女神様なのだ。断る理由が、どこにあるのだろうか。
「そういえば、明日から冬休みだね」
 町の方へと向かう道すがら、彼女はそんなことを言ってきた。
 去年までは何週間も前から待ちわびていたものだから覚えていたけど、今年は剣術練習で忙しくてすっかり、すっぽりと忘れていた。
 一級生の採用試験、ないしそれ以下の等級生の昇級試験が始まる前二週間は、全校的に休みが取られるのだ。
 試験準備週。なんて教官は命名しているけど、生徒の間では専ら冬休みと称される。
「ヘイムはどうするの?」
 そう彼女は聞いてきて、それから直ぐに眉尻を下げる。
 僕には帰る場所がない。選抜試験で共に戦った彼女は、そのことを知っているのだ。
「僕は、いつもどおり寮にいるけど。スピカは?」
「えっと、ヒミンビョルグの近くに別荘があって、そこで過ごす予定」
 努めて明るく返すと、彼女はそう言って空を見上げる。
「ラッキースターの力を、完成させないといけないしね」
 ラッキースター。彼女のもつハガル――災厄のルーン――に込められた、もう一つの秘められた能力の発露だ。彼女はそれを会得するため、頑張っていた。
「そうだ……」
 スピカは僕の胸に指をつきつけてきた。
 突然のことに、僕はやや面食らいながら彼女を見る。
「ヘイムも一緒に、別荘に来てくれないかな」
「え!」
 選抜試験が終わるや否や、新たな事件が始まろうとしていた。

【2】

 翌日。そんなこんなで、僕はスピカと一緒に馬車に乗っていた。
 どうも、訓練校に近い、とは言っても中央と並べてみたときに比較的近いというだけで実際のところそれなりに遠いらしく。荷車で肩を並べて座っていた僕たちの間にはもう話題もなかった。
「……結構、遠いんだね」
 これほど遠くなると「保護なしに出歩くことなかれ」という学校側の外出制限にも引っかかるのだが、別荘には侍従が何人か来ているらしい。
「うん」
 少なくとも三度は繰り返したやり取りを終え、僕は荷車の屋根を見る。革張りの屋根を支える垂木から、火のないランプが所在なさげに揺れていた。
「あの、さあ」
 と、僕らの向かいから、そんな声が聞こえた。
 忘れたかった、といえば嘘になるが、この馬車には僕とスピカ以外にもう一人乗っている。もちろん、今もって馬車を操っている御者さんを除いてだ。
 やや癖のある赤毛をポニーテールにして、強気な印象でもって僕に話しかける少女は、リンレット。選抜試験でロジェスの相方をしていた神兵候補生だ。
「さっきから何回、同じこと言ってるの? いい加減、煩いんだけど」
「……それは、ごめん」
 スピカが僕主導で優しくしてくれているからか、リンレットの言動がかなり強く感じる。
 別に不愉快と言うほどでもないのだけれど、もし母親が生きていたら、こんな感じで口うるさく言ってくるのだろうか、と失礼なことを考えはした。
 大体、なぜリンレットがここにいるのか分からなかったし。
「何故ここにいるか?」
 そこで突然、リンレットが片眉を上げる。
 なんで考えてることが分かったのだろうか。と思うや、リンレットは溜息をつく。
「私のルーンの力。心を読むとまではいかないけど、そんなに疑問が大きいと漏れてくるから自然と分かるの。まあ、洞察の加護力についてはシゲルには大きく劣るけど」
 彼女の持つケンのルーンも、オッテが発動させたシゲルのルーンも、太陽をパワーの根拠とする力だ。だから闇を払う力や、未知を明らかにする力を得やすいらしい。
 僕は、なるほどね、と端的に返す。
「それに、私がここにいる理由なんて、ちょっと考えれば分かるでしょ?」
 リンレットはそう言って、スピカを指差す。
「私と、スピカが、友達だからよ」
「…………」
 犬猿と評せざるをえない仲ではありそうだった。
 ともかく、リンレットも休みの間はスピカに同行するつもりらしい。
「……そういえば、選抜試験はどうなったの?」
 僕が聞くと、リンレットが僕の顔とスピカの顔とを見て、不審そうな顔をする。
「見てなかったわけ?」
 数瞬の後に捻り出てきた彼女の疑問の声に、僕は何も言えなくなる。まさか、町でデートしていたから観戦はしていない……なんて、言うわけにもいかない。
「ええ、ちょっと別に用事があって」
 スピカがそう、お茶を濁すと、心底疑わしそうな視線を向けながらリンレットは、
「……負けた。第二回戦であっさりとね」
 そう告白した。
「負けた?」
 僕は思わず復唱していたけど、気に障るかもしれないと慌てて言葉をつなげる。
「強い相手だったの?」
 ロジェスは、性格はともかく剣術の腕は確かだったし、リンレットだってルーンの力はあるし、ロジェスが選んだくらいだから決して剣も弱くはないはずだ。
「強い……そうね。確かに強かった。鬼気迫る、とでも言うくらいにね」
 彼女はそう言って、自身の腕を抱く。
「アスレチックレースは、普通だった。こちらは、あなたたちが相手のときと同じように、ロジェスの勘が冴えていたし、その時点で十点リードしていた」
「剣術勝負でひっくり返されたってこと?」
 スピカが聞くと、リンレットは頷いた。
「まさに、一瞬よ。戦いが始まるなりロジェスはあっという間にチェックされて、私は何もできずに立ち尽くしているだけだった」
 ロジェスを、あっという間に。そんな技量をもった準一級生がいたのだと、暗澹とした気分になる。準一級最底辺で燻っている自分とは、大違いだった。
「それ、誰?」僕は半ば無意識に、そう聞いた。
「準一級衛兵候補生、ライン・スティキレ。訓練校ヒミンビョルグ唯一の、魔剣使い」
「魔剣使い……ライン……」
 そう僕が呟くと、隣のスピカが急に立ち上がった。
「魔剣……そうよ!」
「きゅ、急にどうしたの?」
「冬休みの過ごし方が決まったわ」
 スピカはニッコリと笑顔で、僕とリンレットとを見る。
「三人で、氷窟を攻略しよう!」



「よいしょ……っと」
 荷物を置き、部屋を見渡す。
 この部屋を使うように、とスピカに割り振られた部屋で、かなり広い。寮室はオッテと二人部屋だが、それと同じくらいの広さがあった。
窓も大きく、開け放つと深緑の森が広がっていて、空気は少しだけしっとりとしている。
 荷物の整理をしてから、応接間の方に来てね。とスピカには言われたが、正直なところ整理をするほど荷物を持ってきてもないので、僕はさっさと部屋を出る。
 応接間の場所は、別荘に来てすぐに案内をしてもらったので分かるが、問題はその前。
 そう、氷窟攻略がどうの、という話だった。
 スピカが言うには、この館の地下には洞窟があるそうだ。
氷に覆われた洞窟は半ば迷宮と化していて、その最深部には妖精の剣が眠っているらしい。準一級最強の衛兵候補が魔剣を持っているなら、ヘイムが妖精剣を持ってもおかしくはないという理屈らしく、氷窟を制して剣を手に入れることは決定事項になっていた。
 リンレットは最初こそ「なぜ?」と疑問符を浮かべていたが(僕もスピカの理屈には賛同しがたい)、僕の父がヘイムダルであったことをスピカが言うと、ふうん、と納得。
 父がヘイムダルだったなら、息子が武器を受け継いだりして強力な武器を持っていたりしていてもおかしくはないから、妖精剣を持っても見咎められたりしないのだとか。
 ライン・スティキレが魔剣を持てるのも同じ理屈らしい。
とは言っても、「そうだった」という口伝でしか両親のことを知らない僕にとっては、親から何かが残されているという考え方自体がよく分からないのだけど。
 そんなことを思いながらも、応接間に到着する。
 当然ながら、荷物を置いてから直ぐにこっちに来た僕が一着で、スピカもリンレットもまだ来てはいなかった。
 その代わり、スピカが本家から召喚したという侍従さんがいて、小さく会釈を受ける。
「スピカたちはまだ?」
 僕が聞くと、侍従さんは「はい」と歯切れよい返事をする。
「お嬢様方はお召し物をかえておりますので、もう幾分か時間を取られるかと思います」
 着替えか。どんな服を着てくるのだろう。
そう思いながら、手近にある椅子に腰掛け、自分の姿を見る。そういう僕自身は、いつも通りの、素朴な装いだ。
貧相さでいうならそこにいる侍従さんと同等か、あるいはそれ以下かも知れない。
「そういえば、この館の地下には洞窟があるって聞いたけど、そうなの?」
 自分の服装についてあれこれ考えるのが情けなく思えて、侍従さんに話しかけてみる。
「その話題につきましては、私からお答えすることはできません」
 が、取りつく島もなく返されてしまった。
「もちろん、ミアにもお聞きにならぬよう、お願いいたします」
「えっと、ミアって?」
「私がトアで、妹がミアです。繰り返しとなりますが、その話題に関して言えば、私どもからはお答えすることはできません」
「…………」
 何か事情があるらしい。そんな秘密の場所に、僕は入ろうとしているのだろうか。
 その沈黙にわずかな不気味さを感じながら、「わかりました」と返す。
 少しだけ、心配になる。
このあとスピカが、私たち三人で氷窟に挑む、なんて宣言したらトアさんは血色を変えて止めに入らないだろうか、と。
「ヘイム」
 すると、そこで声がかかった。どうやらスピカたちが来たみたいだ。
 僕が入口の方へ振り向くと、そこには思ったよりも簡素なドレスに身を包んだ少女たちの姿があった。スピカは薄く花柄のあしらわれた白いロングドレス。リンレットは無地の黒いロングドレスで、こちらはスリットがあり、腿が晒されていた。
「どう、似合ってるかな?」
 そうスピカは聞いてくる。
 思ったよりも簡素なとは言ってもドレスはドレスであって、普段のスピカにはない魅力を感じるのは確かだった。僕は素直に「うん。綺麗だよ」と答えることができる。
「私は?」
「リンレットも」
 リンレットが半眼で聞いてきて、僕は慌てて付け加える。
 彼女は一瞬だけ納得がいかないように僕を見ていたけど、やがて諦めたように僕の前の席に座って、無造作に足を組む。
「さてと、この館の地下にある氷の洞窟を攻略するんだっけ?」
 リンレットが言うと、スピカは僕の隣の席に座って頷いた。
「その奥にある妖精の剣を手に入れるのが目的だよ」
 当然そうくるであろう話流れだけど、僕は恐る恐るトアさんを盗み見た。
 しかしトアさんは、部屋の隅で相変わらず直立しているだけで、アクションを起こす様子はない。
「トアがどうかしたの? ヘイム」
 スピカに言われ、僕はどうやら気にしすぎの性質があるらしいと思い直す。止められたら止められたで、そのときは普通に二週間過ごすだけだろうし、あえて自分がトアさんの顔色を窺う必要性はないのでは、と気づいた。
「いや、立ってる人がいると落ち着かなくて」
 僕が慌てて取り繕うと、スピカはクスリと笑い、リンレットは呆れたように口を開く。
「従者なんだから、普通は立ってる」
「まあ、そうだろうけど」
 取り繕いついでで言うのも難だけど、そういうのは好きじゃない。向こうは仕事だけど、こっちはプライベートなわけだし。
「トア、用があったら呼ぶから、下がっていいよ」
 スピカが言うと、侍従さんは黙ったまま一礼して部屋を出て行く。
 トアさんは氷窟について聞くなと言った。それは、氷窟に何らかのお家的な因縁があることを示しているはずだ。だけどスピカが話しても大丈夫だった。ということは……
「その洞窟だけどさ」
 口を開くと、スピカは「何?」と首を傾げた。いつもと少し印象が違うと思ったら、彼女はアッシュグレーの髪をサイドポニーにしていたらしい。
「……いや、やっぱりいいや」
 あえて聞くことでも、ない気がした。必要があるならスピカの方から言ってくれるだろうし、知られたくないことだったら、逆に迷惑になるだろうから。





【3】

 その日の夜。食堂にあった無駄に大きなテーブルは隅に寄せて、小さな丸テーブルを囲んで僕らは夕食を食べていた。
 トアさんとミアさんが作ったという料理は、訓練校の食堂で出る料理とはまた違った風味をもっている。僕がそこを言うとスピカは、
「トアとミアはアルフヘイムで料理の勉強をしてた事もあるから、アースガルズとは違う風味なんだと思うよ」と答えた。
「二人はエルフだってこと?」
「ううん、彼女たちは神。ミズガルズ出身の人間だったけど、アースガルズに留学していたの。留学中にアースガルズが戦争状態に入ったからアルフヘイムに避難させられちゃって、そのままそこで料理の勉強をしていたのを、パパが雇って、神格を与えたの」
 アースガルズが戦争状態って、と僕が計算していると、食堂の戸が開く。
「おかわりはいかがですか?」
 トアさんだった。その姿には心なしか静かなプレッシャーがある気がする。
「ちょうどよかった、トア。今あなたの話題で盛り上がっていたの」
 スピカがおどけて言うと、彼女は「存じておりますとも」と冷ややかに言って部屋を出て行く。スピカは舌をちょっと突き出して、この話はおしまい、と打ち切った。
「レディの年齢に気がいくなんて、ヘイムは最低ね」
 リンレットは窘めるように、僕に言う。
 またも、僕の思考はよく漏れ出していたらしい。
「……氷窟の探索はいつからするの?」
 逃げ出すように、スピカに聞く。
「来た日の夜中に始めるほど急ぐこともないだろうし、明日の朝からにしよ」
「賛成。洞窟に入るには、ちょっとお尻が痛いし」
 リンレットもそういうので、探索は翌日になった。今日の夜は、ゆっくりできそうだ。
「失礼します」
 戸が開き、侍従の装束をまとった女性が入ってくる。トアさんに似ているけど、こちらはショートカカットで、トアさんはロングだったから、彼女がミアさんということになる。
「食後のお酒はどうされますか?」
 彼女がいって、僕たちは顔を見合わせる。口火を切ったのはリンレットだった。
「私はパス。あんまり強くないしね」
 そう言うと、あなたもそうするでしょ? と彼女はスピカを見る。
 スピカはリンレットを見てから、それから僕の方にちらりと確認したのち、「少しだけ」とオーダーした。
「じゃあ、僕も少しだけ」
「承りました」
 ミアが出て行くと、リンレットは溜息をついてスピカに言う。
「スピカ、あなたが明日の朝って言ったんだから、あなたが寝坊しないようにね?」
「そんなに飲まないから、心配しなくても大丈夫」
 スピカが返すと、リンレットは疑わしげに一息ついて、
「ヘイム。この子、思うより弱いから、ちゃんと量をみてあげてね。……おやすみなさい」
 そう言い残して食堂を出て行った。
「スピカって、お酒は弱いの?」
「自分が思うよりは、ってことなら、そんなに弱くない」
「…………」
 もしかしたら、とんでもなく弱いのかもしれない。そう思うも後の祭りで、トアが小さなボトルワインをもって入ってきた。
 グラスにちょうど一杯ずつ入れると、トアは一礼してすぐに部屋を辞する。
 スピカがお酒に強いのかどうか、聞く暇もなかった。
「さて、乾杯しましょ」
 そういって、グラスをもつスピカ。
 ボトルはトアがそのまま持っていったので、お互いグラス一杯分しかワインはない。
 まさか一杯で大変に酔うことはないだろうと楽観的なことを思いながら、僕はグラスを手にとって応じた。
「何に乾杯するの?」
 彼女はグラスを持ったままおもむろに立ち上がった。僕も、弾かれるように席を立つ。
「この絆に」
 スピカはそう言うと、僕に近づいて左手で腰を引き寄せてくる。僕はグラスを左に持ち直すと、右手で彼女の背に手を回した。
 チンッと、小さくグラスを合わせる。
「乾杯」
 そうしてワインを飲んでいると、それだけで幸せだった。彼女が女神と称されるほどの美少女だから……というだけではない。
 衛兵候補生の準一級最底辺にいる僕と、準一級神兵候補生でもトップクラスの彼女。相容れない立ち位置にいるはずの僕らは、今こうして穏やかな時間を過ごしている。
 力を合わせて剣を練習し、共に戦い、共に負けを経験して、好きだという気持ちを伝えあえた相手だから。だから、幸せなのだ。
「私ね、みんなが思うような、すごいひとじゃないの」
 彼女はワインをあおると、ポツリと言った。
「訓練校のみんなが囃し立てるような、女神じゃなくて、ただの女の子なんだよ」
 それは、ハガルの力を発揮しきれない自分を悔やむものなのかもしれない。
「スピカが女神だろうが、ただの女の子だろうが、関係ないよ。スピカがスピカだったら、僕はそれ以外の表現なんていらない」
 言って、右腕に力を込める。
 我ながら、気障で嘘っぽい台詞だったと思う。だけど、僕はお酒のせいだと思い込むことにして、スピカの上体を引き寄せて彼女の首元に顔をうずめる。
「ヘイム……?」
 スピカが戸惑うような、淡い吐息とともに僕を呼ぶ。
 僕は顔を上げ、グラスをテーブルに置いた。彼女のグラスも取り上げて、そこに置く。
「スピカは僕を認めて、包んでくれたから」
 顎に手を当てると、彼女は僕を見つめて、それからゆっくりと目を閉じた。
 長い睫毛は少しだけ震えていて、僕も緊張してしまう。だけど、その唇に引き寄せられるようにして、
「おかわりはいかがですか?」
「トアッフ!」
 突然、現れるトアさん。僕、即座にスピカから離れ窓際で空を見るポーズ。スピカは僕の方に半身で立って、トアさんからは目を背けるポーズへ移行。この間、コンマ二秒。
「べ、べつにいいかな」
 スピカが赤くなった(お酒のせいだけではないだろう)顔を冷ましながら言うと「ええ、存じておりますとも」とトアさんは澄まし顔で答えた。
 実は監視しているんじゃないだろうか。僕は、グラスや食器などを回収するトアさんを見ながら思った。
「…………」
 トアさんが食堂を出てから僕はスピカを見てみたけど、もうそんなテンションではないらしくて彼女はクスクスと気分よさげに笑うだけだ。
「はあ、明日は早いだろうし、そろそろ寝ようか」
 彼女にそう言われれば、僕から引き止めるわけにもいかない。
「……そうだね」
 多少、勿体ないなとは思ったけど、僕はそんな思いを飲み込んで、頷いた。



 明くる朝、僕は学校で用いる訓練用の服を着ると、部屋を出た。
 食堂にやってくると、そこにはリンレットとミアさんしかいなかった。
「おはよう。……スピカは?」
 僕が声をかけると、リンレットは緩やかな動きでティーを呑んでから「私は剣を持ってきてないよ。たぶん彼もね」と、彼女は言う。
 そう言ったから、剣を取りに行った、ということだろう。ヒミンビョルグでは剣の貸し出しがあって、卒業まではそれで事足りるから、僕は自分用の剣というものがない。
 スピカが用意してくれるというのであれば、それは大助かりだった。
 大体、僕もリンレットも、まさか人様の館の地下に洞窟があろうとは思わないし、それを踏破してやろうと意気込んで来たわけでもないのだ。
「了解したよ」
 彼女の向かいの席に座ると、ミアさんが卓上炉(アルコールランプのようなものだ)からポットを下ろすと、無言のまま、僕の前にティーカップを注いでおいた。
「リンレットは、その格好で行くの?」
「何か問題でも?」
 リンレットは昨日着ていたドレスの色違いで、淡い赤色のものを纏っている。
 生地も厚手というわけでもなく、掛けて引いた程度で裂けてしまうような気がした。
「……その格好で剣を振り回すと危ないような気がするんだけど」
「剣を振るのは、あくまで最終的な手段よ」
 リンレットは肘をついて、僕に右の人差し指を向けてくる。
「私にもスピカにもルーンがある。もちろん、貴方にも。違う?」
 彼女が人差し指の先に赤い閃きを見せると同時、僕は思わず背を仰け反らせた。
「っ!」
 先ほどまで僕の顔があった場所に、大きな火花が散る。
 選抜試験のときに焼きついた条件反射みたいなものだった。もし彼女のルーンを一度も食らってなかったら、今、僕の顔が焼きついていただろう。
「確かに僕もルーンはあるけど、そういう、攻撃に使えるやつじゃないんだ」
 そういうと、彼女は毒気を抜かれたように僕を見る。
「……フェオ、ウル。いえ、もっと根本的にギューフ?」
「惜しい。その次のウィンだよ」
「ああ」
 僕が自身のルーンをばらすと、彼女は納得したように嘆息を漏らす。
「だから、スピカが貴方のことを気に入ってるのか」
「分かるの?」
 彼女は頷いた。ちらりと扉の方を見てから、僕に顔を寄せる。
「スピカとは家族包みの付き合いだった。幼い頃から、ずっと彼女のことを見てたから」
 テーブルに視線を落とす彼女の目には、言いがたい想いが詰まっているような気がした。
 選抜試験のとき、相手に何か言われたかと聞かれたスピカは「今日こそ、自分のほうが私より優秀だと、証明してみせるって」と返した。
 それは、スピカとリンレットが単に仲が良いだけの関係ではないことを示していた。
 家族包みの付き合い。
 恐らくは、両者が比べられることもあっただろう。今の僕とオッテでさえ、評価する者にとっては比較の対象となりえるのだから。
「スピカは、強い力をもっていたけど、その力が凶意でしかない事にはコンプレックスを持ってた。今も、昔もね」
 リンレットは言ってから、椅子に深く腰掛けなおす。
「今のは忘れて」
 特に、私がそれを言っていた事はね。と、そう言った。
 リンレットは、自分に呆れているようにも見えた。

【4】

「さ、寒くない……?」
 地下二階。鉄格子の奥から流れ込んでくる冷気に僕は身を縮める。
 スピカは訓練校のものとは違うパンツルックの厚手のユニフォームに身を纏っているし、リンレットはさっきまでと同じドレスだけなのに、寒そうな気配はない。
 恐らく、ケンのルーンで寒気を防いでいるのだろう。こういう時にはまったく役に立たない自分のルーンに小さな苛立ちを覚える。
「リンレット」
 スピカがささやくと、「まったく」と溜息をついてリンレットが近づいてくる。
「え、なに?」
と呟いた瞬間、僕はリンレットに額を弾かれた。
「痛っ」
「世話を焼かせないで」
 そう言ってから、彼女は鉄格子の前に躍り出ていく。
 先ほどまで感じていた寒気は嘘のようになくなり、僕はケンの加護力で暖かくなったんだと少し遅れて気づいた。
「ありがとう」
 まあ、欲を言うと、もう少し目立たない場所にルーンを打ってほしかったけど。
「……別に。スピカ、行くなら早く行こう」
「うん。ヘイムも、準備はいい?」
 僕が頷くと、鉄格子が嫌な音を立てて開いていく。その先は緩やかに下っていて、階段になっているみたいだった。
「一応、聞くけど、中に化け物が封印されてる……なんてことはないよね?」
 さっさと中に入っていくリンレットとスピカの後ろを、情けないかな、四歩も離れてついていく。だって身を守るものが剣しかないし。
「多分ね。でも私が知ってる限りでは、そんなことはないはずよ。それに、そうでなくともここには……」
 階段を折りきった先には、十メートル四方の部屋があった。壁は氷に覆われており、ところどころ尖った氷の柱が突き立っていた。冷気が白く輝いて、その様は氷窟の名に全く恥じない。
 奥にはまたアーチがある。そこからはまた階段で下りるようになっていた。
「ここには、なに?」
「待って」
 リンレットが言った瞬間、向こうのアーチからぞろぞろと白い結晶が現れた。正確には、白い結晶が連なってできた多脚の虫のようなモノの大群だ。
「エレメント? ……いえ、魔蝕?」
 彼女が赤光とともに手を振ると、結晶体生物の群れが爆炎に包まれて消し飛んだ。
 選抜試験で彼女のルーンは見たつもりだったけど、あの時は、かなり加減していたらしい。ロジェスに気を取られて初撃で今のを食らっていたら、その時点で戦闘不能……いや、一生、剣を振れない身体になっていてもおかしくはなかった。
「数が多い。魔蝕なら親がいるはずだけど!」
 リンレットが言うから、僕はスピカの方を見た。
 スピカは剣の柄に手をかけたまま、何も言わない。
「スピカ?」
 聞いたときだ。
 その瞬間、氷窟が揺れて、すさまじい轟音とともに床に亀裂が走った。氷窟が、崩落していく。
「――」
 スピカか、リンレットか。
 咄嗟にどちらを守るか決められないまま、僕達は地を見失い、落下していった。
 深く、深く、途方もなく、深く。



「あ、れ……」
 目を覚ました。
 衣服を肌に張り付かせる、しっとりとした水の感触が心地よい。どうやら僕は、仰向けのまま水面に浮かんでいるらしい。氷窟の地下の泉だ。痺れるように冷たい水を想像したが、リンレットのルーンの加護か、元々なのか、水は冷たくも温かくもない。
 立ち泳ぎの体勢になって、辺りを、そして頭上を見渡す。
 大きな洞窟の一角、といったように見える。入ってすぐの部屋にはきちんと壁がレンガ組みしてあったのだが、ここは地肌そのままの印象だ。相当このダンジョンの深い位置にあるか、もしかしたら本来の氷窟の最奥を超えているかも知れなかった。
 上には、僕が落ちてきたらしい大穴が開いている。遥か高みに、僕の落ちてきたフロアが見えているような気がした。
 その光景にゾッとする。下にこの泉がいるからこそ、僕は生きている。だけどこの泉がなければ……と、そこで僕はスピカとリンレットのことを思い出した。
 辺りを見渡す。
 すると、泉の岸辺に淡い赤のドレスが見えた。
「リンレット……」
 駆け寄り、肩を揺らす。幸い、呼吸が止まってるなんて事はなくて、彼女は目を覚ました。緩慢な動きで身体を起こし、辺りを見回す。
「ここは――そっか、私は落下して」
 彼女は顔にかかった髪を脇に避けて、今度は僕を見た。
「スピカは?」
「この近辺には、とりあえず見える範囲にはいないみたい」
 そう答えると彼女は頷いて、水面から身体を引き上げた。そこで僕は息を呑む。
 水に濡れた淡い赤のドレスがリンレットの身体に張り付き、彼女の健康的な肢体を微かに透かせていたのだ。胸こそ――控えめなものの。スレンダーで無駄のない体躯に見惚れそうになる。
「なに、見て、る……の……」
 彼女は言いながら、そこでようやく気付いたらしい。
 顔をグンと紅潮させ、次の瞬間には僕の頬が張られていた。
「痛いって!」
「知らないわよ。こっち見ないで!」
「先に口で言えばよかっただろ」
「言う前に見たのはそっちでしょ!」
「…………」
 数秒後、僕の視界に現れた彼女のドレスはすっかり乾いていた。ケンの魔術の万能性には全く驚かされる。
 水気もないリンレットの髪を見ると、どういう魔術作用なのか、彼女は少しだけ顔を赤くして僕の顔を背けさせた。何故か、僕も乾かしてくれとは言えなかった。
「さて、スピカを探しましょう」
 彼女は言って歩き始める。
「そういえばだけど、泉の水はそこまで冷たくなかったよね?」
 その背に、問いかける。ケンの加護によるものなら、彼女がそう言うだろうし、と。
「確かにね。それに、ここは氷窟の奥にあたる場所なのに、氷が無い」
 だけれど、彼女はそれを肯定した。そうなのだ。最初の部屋にこれでもかと張られていた氷が、ここにはない。泉も凍ってなかったし、氷柱なんて突き立っても下がってもない。
「逆を言えば、ここには魔蝕もいない。スピカを探すには好都合ね」
 魔蝕というのは、魔力の残滓が周辺の害意と結びつき、無生物を操るようになることだ。悪霊がものを動かして人を襲ったりするのと似たような現象で、精霊の意志が具現化したエレメントとは、主に人を襲うか否かで判断される。
 この場合は氷に取りついた害意……つまり氷の魔蝕と言える。
「じゃあ二手に分かれる? ここ、結構広そうだよ」
 彼女は少し考えてから、腰に剣があることを確認してから踵を返した。
「私はこっちを」
「またこの場所で」
 短いやり取りを経て、歩き出す。
 その、僅かに五歩目のことだった。
 ヒンッと大気を切る音が聞こえたと認識するや、続いてドォンと地面が揺れ、激震する。
「リンレット?」
 僕は彼女の安全を確認するために振り向くと、そこには巨大な氷の塊の前でへたり込んでいるリンレットの姿があった。
 大穴から二メートルを超える氷の塊が落ちてきたのだ。不幸中の幸いか、彼女に直撃したわけではないが、至近に大きな氷塊が落下したのに腰を抜かさないような胆力など、誰だって持ちえないだろう。
 だが衝撃はそこで終わりではなかった。
 駆け寄ろうとする僕の足が、その場に縫い付けられてしまう。
 氷塊が落下の衝撃で割れたのだ。そして、ただ割れるだけでなく、そのまま一個の魔蝕と化してしまったのだ。
 太く、高い四本の足に、小さな氷の連続からなる、長い二本の尾。頭には剣のように鋭い角さえある。
 氷の魔蝕。それも、恐ろしく強大な。――魔蝕には、親という存在がいる。一帯の魔蝕を統率する、力ある魔蝕だ。そんな記憶が蘇る。
 リンレットがルーンを炸裂させるより前に、その長い尾が、彼女を捉えて縛り上げた。
「あ、くっ!」
 宙で締め上げられ、呻くリンレットの姿に、僕の足がようやく動き出す。
 剣を抜いた。
 僕に倒せるかどうかは分からない。大体、魔蝕を剣で斬ることができるのかも、分からないのだ。だけど、やるしかない。
 振りかぶる。魔蝕は頭をもたげ、鋭い角をこちらに向けた。
 どうやら角で応戦するらしい。鋭く振りかざしたロングソードが、魔蝕の角と衝突する。
「――うっ!」
 硬い。
 まったく歯が立たないという感触でもない気はするが、それにしたって相当に力を込めないと折ることはできないと思う。
 そして、力を込めて斬るということは、否応なく隙を晒してしまうということだ。
 力を込めて、角を弾く。
 それだけの行為でも、圧倒的な安定感の差は見て取れる。僕はフラつくし、魔蝕は微動だにしない。
 二本足と、四本足。人一人と、リンレットを抱える二メートル強の氷の魔物。
 圧倒的にパワーが足りない。
 パワーが足りないということは、氷の魔蝕を斬れないこと、従ってリンレットを助けられないこと、僕も倒され、スピカも探しにいけないということだ。
「ヘイム!」
 リンレットの声が洞に響いた。
 辛うじてソレに反応して、剣で防御する。ギャリギャリと削れる音。魔蝕の閃かせた、もう一方の尾によるアタックを寸でのところで凌いだ。
 だが、ギリギリだった。次は間に合うか分からない。それに、注意すべきなのは尾だけではなく、角もそうだ。四本の足こそ攻撃には使わないらしいが、圧倒的に威力の大きい角と、圧倒的なリーチと速度を有する尾だけでも脅威なのだ。
 コンビネーションで来られたら……そう思うとケンのルーンで遠ざけていたはずの寒気が背筋に降りてくるのを感じる。
 汗ばむ手から剣が抜けないように、強く柄をグリップする。
 角を防ぐ。
 衝撃に身体が揺らいだ。隙を逃さず、矢継ぎ早に尾が飛んでくる。
 不安定な体勢でのガード。こめかみに一筋の傷が入り、大げさに出血した。
 とたんに足が鉛のように重くなって、膝が地面に滑り落ちる感触を得る。
「ヘイム!」
 リンレットの叫び声が聞こえた。
 ……そう、授業で習ったことがある。魔蝕は、魔力の残滓が害意に染まって生み出されるもの。その身には悪しき力があり、傷をつけた生者の精神を汚染するのだと。
「立ってよ! お願い! ……私、死にたくないよ!」
 彼女の悲痛な叫びも、やがて遠くなっていく。
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by yamaomaya | 2012-02-11 15:18 | 小説